フォースを感じる

『リズムとフォース』という本を読んだ。

ドローイングの教本なのだが、実践的な技術書というよりは〈見方〉について書いてある。おおむね、デッサンや絵画について書かれた読み物として面白い本というのは〈見方〉について書いてあるように思う。

 同書にはフォースという用語が頻繁に出てくるのだが、これは線画における動線を指す。人体がなんらかのポーズを取ったとき、左右対称である瞬間はほぼ無い。そうすると重心がかかる力、引き上げる力が上下左右に働く。このときのパワーともいうべき動的な力のことをフォースと呼んでいる、とわたしは解釈した。(詳しくは本を読んでね)

 フォースはわたしの今の身体にも作用している。オフィスチェアの上にあぐらをかいて、前傾姿勢でキーボードをタイピングしている姿勢。背中は丸まった曲線、キートップに這わせた指は直線、こういった線のリズムもまた楽しく、同書の中でフォースと同様に扱われる重要な要素だ。音楽や舞踏のように線を描ければどれほど楽しいだろう。しかしそれをするには、音楽や舞踏のように線を見ることからで、『リズムとフォース』はこういった観点を与える素晴らしい本だった。

 わたしはこの本を読んでから、友人知人に突然「フォースを感じる」と言うようになった。そのたびに不穏な空気になるのだが、人間社会はそれでも一定のリズムで動くのである。

大掃除の翌月

先月に大掃除をして、ぴかぴかになったと思ったらまた汚れてきた。

なんだか昔と比べて部屋の汚れるのが早い気がする。空気清浄機も置くようになったのだが、あんまり効果は感じない。

考えてみると、部屋だけではなくて自分自身の汚れも加速していっている。一日ひげをそらずにいたら、見るも無残な恰好になっているし、すこし無理して徹夜すると、あっというまに顔にふきでものが出来ている。

部屋、顔、身体の汚れは生活の残滓で、もっと健康的な日常を送れば残滓の出る幕はないのだろう。いまだにチキンカツサンドウィッチばかり食べているよ。あなたたちは元気にしていますか。

散歩日記

友人につられてブラブラと歩く。水道の博物館にいく。帰りにサービスで水を背負えるリュックサックをもらう。災害用っぽいやつ。ビニールをそのままリュックにしたようなかたち。何リットルも入る。見ようによってはとてもサブカルチックで無彩色のキッチュだ。いいものだと思った。水を運ぶためという明確な理由がなんだか気持ちいい。これから数リッター背中に背負って歩いてもいいなと思った。
本郷の喫茶店などに行く。カレーを食べる。生活の中でたまにこういうことがあるとやはり少しうれしい。友人は道の覚えがいい。わざとグーグルマップの現在地情報を使わずに地図機能だけで歩くのだと言っていた。世界に便利なツールは用意されている。それでもどう使うかは人が決めるのだった。
喫茶店で世間話をする。本郷で一軒、そこから歩いて上野で一軒。上野は何度きても道に迷う。それでも少し楽しさはまじる。浮き足立つ街なのだろう。付き添いでお菓子屋に行く。いろんなものが置いてある。これが好きだとかこんな風なのが好きだとかこんなのもあるなんて話になる。前向きな話題とお菓子は似合うのだなと思った。

世界観

カメラのファインダーごしに覗く世界は、ファインダー越しに見ている自分の世界に過ぎないのだということを写真家の中平卓馬が言っていたように思う。氏はそのことを嘆いていた。つまり写真に世界をおさめようとしたところで、自分というフィルターを通さざるを得ないことに限界を感じていた。彼が晩年に作風を大きく変化させたのはそういう経緯がある。わたしが見ている世界も、わたしのとぼしい五感で濾したものに過ぎない。わたしはそのことにすこし安心している。