元旦に

1 大晦日

 大晦日は珍しい友人からSkypeでコールが来ていたので取った。最終的には四、五人の同窓生たちで近況の話をする。引越しの話題になる。

 そういえば、twitterで定期的に引越しの可能性を仄めかしながら結果的に黙殺するかたちになってしまっていて申し訳なく思う。状況が決まったらお伝えします。

 

2 元旦の読書

 京都の三条まで行った。はじめは元旦にやってくる親戚から逃げるためだったのだが、ついでに初詣もしようという魂胆だった。ところが、河川敷で川を眺めていたらどうでもよくなってきて、地元の神社でいいやと思った。

 からふね屋というパフェがたくさんある店に行った。サクサクロースカツパフェとかいう、とんかつが入っているパフェを食べた。自分はあんまり食べ物を笑いに転化したものを食べるのは抵抗があるのだが、好奇心にあらがえず、実際食べてみると案外おいしかった。

 時間を潰すつもりだったから文庫本を持ってきていて、そこで『いもうと物語』を読んだ。氷室冴子は初めて読む。昭和40年代、北海道での日常生活を子供が記した、という体で書かれている。石油ストーブを買ったときの家族の反応だとか、親戚の家に遊びにいったときのやりとりだとか、そういったものを女の子が実直な文体で語るのだが、これがまったく嘘っぽくなくて、本当にその時そんな気持ちだったんだろうなと思わせられる。はじめノンフィクションの日記かと思ったくらいだ。

 ところで、「子どもらしさ」というのは可愛さだけではないし、残酷さもある。主人公のチヅルの視点はここもきちんと描かれていて、傍からみて、倫理的には間違っているような言動を取ったりもする。そしてそこに、行動の正しさを裏付けするような哲学もなければメッセージ性もない。そういった側面、社会風刺はむしろサブキャラクターを用いて書かれていて、チヅルの視座はリアリズムに徹しているはずだ。

 チヅルにあるのは、いずれ整理整頓されるであろう無秩序な思考といったもので、これを無垢と呼ぶこともできると思う。チヅルなりのポリシーは、大人から見て正しいわけではない。あるいはそれが、だからこそ正義なのかというと、必ずしもそうではない。善悪を伴っている。いいこともすれば悪いこともする。分かることもあれば分からないこともある。そのはざまで苛々したり怒ったり泣いたりする。それは大人が後から手に入れることのできない無秩序/無垢そのものであって、ここに美点がある。

 これをあっさりと書きだしてしまうのだとすると、氷室冴子っていうひとは凄い作家なのかもしれんなと思う。また機会を作って別の作品も読んでみよう。

 

3 親戚づきあい

 『いもうと物語』が家族や親族を描いた小説だったから、せっかく我が家を訪ねてきてくれている親戚をむげにするのも心苦しくなって、三条から帰路についた。いざ面と向かって話してみるとなんとかなるというか、別になにも問題はなかった。ただ、これは毎年反省するのだけれど、はちゃめちゃに元気な子どもに対して自分は彼らを楽しませる芸がない。おもしろい話くらいなら出来るから、せめて10分だけ耳を貸してくれれば笑わすこともできるんじゃないかとも思うのだが、移り気で元気いっぱいの子どもたちが10分も黙って聞いてくれるとは思えず、なかなか切り出せないまま終わってしまった。まるで「いくら話や絵がうまくても世渡りが下手だと無理」みたいなクリエイターあるあるのような問題にぶちあたってしまい、世の中の仕組みというのは大体が共通しているのかもしれないなと感じた。