払暁にて

真夜中の二時ごろに明日どこかへいこうという話を友人とすることがある。手持ちの作業が落ち着いたら始発でどこかにいくのだと。千葉の九十九里浜だとか、あるいは奥多摩だとか、色んな候補がでる。ところが作業が落着したころには眠くなっているから結局毎回行かずじまいだ。そのぶん進捗は進むが、足跡は増えない。どちらがよいのか未だにわからないまま何度も同じことを繰り返している。ゆりかごの中にいるみたいな意志決定の保留は心地が良くもある。的確な判断をせまられるまでのモラトリアムな時間がわたしにはすこし嬉しく、そしていずれ喪失する予感もある。「また今度でいいや」とわたしはいつまで言えるだろうね、とひとりで五時台の三日月を見上げながら思う。払暁におりた空の錨はとてもきれいに見えます。