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純喫茶について

 ぼくが喫茶店を好きになったのは今年くらいからだろうか。今までもよく利用していたが、商店街に足しげく通うようになったと同時に多様な店舗を行き来することになった。商店街についても詳しく書いておきたいのだが、それはまた今度にする。

 ここでいう喫茶店というのは純喫茶のことだ。要するに、古くて昔ッからあるような喫茶店だ。丁寧なところは店の前に創業何年とか書いてあるが、だいたい書いていない。たぶん面倒くさいか、言うまでもなく古いってことくらい分かるだろうからだ。

 純喫茶と一概にいっても、明るくて騒がしいところや、暗くて静かなところもある。どっちがいいというわけではなくて、それぞれに特徴があって、その時々の気分でぼくはどこにも立ち寄る。

 ここで忘れたらいけないなと思うのは、純喫茶をあえて避ける人たちもいるということで、スターバックスドトールのほうが好きな人たちも街の一員だ。ぼくはそこに線引きをするつもりはないし、嫌煙家の人だと純喫茶は分煙していないことのほうが多いから嫌だったりもするだろう。

 たぶん、純喫茶という文化は数十年後にはほぼ壊滅状態になると思う。実際マスターやママに話をうかがっても、自分たちの世代で店をしめるという人たちばかりだ。たぶん、「かつてこういうものがあった」ということを再現する店はそりゃ出てくるだろうし、なんとか踏ん張って続ける頑張り屋さんの純喫茶もあるだろうが、どちみち客が「純喫茶だから」という理由で行く純喫茶というのは、なんだかそれは博物館的な楽しみ方になってしまうから、飲食店のありかたとしてメインストリームから外れる/外れたのは否定できないだろう。

 純喫茶の客のおじさんが一人いたら、彼の息子や娘たちが不可視なものとして存在することを忘れてしまってはいけないと思う。不在の人たちは不在であることでそのことを教えてくれるし、純喫茶のたいはんが潰れてなくなったあと、いまスタバやドトールを利用している若い人たちがいずれ懐かしさでスタバやドトールを回想したり利用することもあるだろう。このロジックに貴賤はなくて、世代ごとの、個人ごとの安心や習慣があるというだけの話だ。

 そして、ぼくは純喫茶が好きだ。なんだか人ん家に訪ねていったようなアットホームな雰囲気や、どうやって生計を立てているんだか分からないような胡散臭いおじさんたちが煙草を吸いながら競馬新聞を広げていたり、かまびすしい主婦連が息子の話なんかをしたりしているかと思えば、繊細そうな学生がすみっこで本を読んだりしている。しかし、そんな彼らさえ殆ど来なくなった純喫茶もある。一日に指で数えられるくらいしか客が来ないなか、静かに客を待つというよりも、来ないのが自然だからすっかりマスターやママも受け容れていて、なんならぼく以外に唯一客席に座っているのが彼彼女だったりもする。そういう人たちに「いつごろからこの店を」と切り出すと、オルゴールみたいに昔話が鳴り始める。楽しい音楽、悲しい音楽、色んなものが聴こえる。チェーン店ではそういったことがない。だからぼくは純喫茶が好きでよく入る。もちろん、ほぼ確実にたばこが吸えるからという現実的な理由もあるけれど。