映画の記憶

 『カッコーの巣の上で』で、もう映らないブラウン管テレビに向かって主人公が架空の野球中継を再現して実況する。『ハロルドとモード』の冒頭で、主人公が何度も何度も自殺のまねごとをする。『真夜中のカーボーイ』で、ジョーとリコが寒そうにしながら一緒に眠る。そういう映画の断片的な記憶が脈絡もなくフラッシュバックすることがある。バードマンの冒頭の記憶だ、と思ったら本当にSkypeのコールが掛かっていたこともある。これは笑うところ。

加齢は二枚舌

 去年の今頃は京都に通い詰めていた。出先で本を読んだ。甘いものを食べた。珈琲を飲んだ。誰かと会う約束をするわけでもなかった。もうそのころには一人で歩いて一人で帰ることに慣れていた。そういうシーズンだった。

 三箇日から日程をずらして帰省することにしたので、明日からわたしは大阪に少しの間だけいる。また京都に行こうかとも思う。読書会の友人と次の課題図書の話をした。「ストーナー」か「1984」になりそうだった。ストーナーは大阪の本棚に、1984は電子書籍のアカウントに紐づけられている。どちらとも愛着のある物語だった。

 わたしは読書家ではない。ただしある時期、濫読するひとだった時期はある。そういう、一過性のものとしての郷愁がある。歳をとることは郷愁を増やすことかもと思った。それさえも失いつつあることを半ば自覚しながら。

 歳を取って、それなりに狡猾になり、それなりに痴呆していく。物を憶えると同時に忘れていく。加齢は二枚舌で、わたしの舌はより二又になっていくことでしょう。

イヴ

都内某所に展示を観に行く。

友人の作品が展示されていた。はじめてその人の漫画を大判で読む。いつもA5サイズや画像データだったので、物理的な大きさはいいものだなと思う。

今までちょくちょく顔合わせはあったけれどちゃんと話したことがなかった人たちと話す機会を得る。ひとに自己紹介をするとき、「~~の~~です」というような説明や、「~~さんがいる~~の~~です」というような形になる。他者から紹介していただくときも同じようなことになる。普段あんまり所属を意識することがないのだけれど、他人が自分を認知するときに何かしらへの帰属は記憶の一要素として大きいのかもしれないと思った。単純にありがたい気持ちもあるが、一個人としてがんばって覚えてもらえるようにもなっておかねばなと思う。それか誰からも忘れられるようなかたちでもよい。

 

展示内容は他もよかった。もともと自分が好きな分野だった。大学生のころにいちばん好きだった分野だった。わたしもまた帰属に絡めて記憶をしている。「~~のころ」という表現がわたしには多いなと今気づく。

近況

近況。

髪を短くした。

クリスマスの漫画をいくつか描いた。

即興で漫画を描くことができるようになったのは嬉しい。デジタルに限るけれども。

最近人から袋入りでモノを貸してもらったり受け取ったりすることが多い。そのひとの人柄が出ているように思う。わたしは誰かになにかを渡すときに袋で工夫をするようなところがないのでいかんなと思う。もうちょっと気が利く人間になろうと思った。

今日の出来事

 中々入手できなさそうな本が実店舗の書店に一冊ぽつんと置いてあったので買った。

とても嬉しい。まるでサンタクロースがわたしと本のあいだに舞い降りたようだ。

 今日は久しぶりにお好み焼きを食べた。とてもおいしかった。ふるさとの味かどうかは分からない。ふるさとのことを考えるきっかけにはなった。

 少しの時間だけ友人と会う。ずいぶんと顔色が悪いといわれる。認めざるを得なかったのでビタミン剤をたらふく買う。

 あとは錠剤を呑むことを忘れないようにしないといけない。初動と記憶はどちらも億劫で、違う努力が必要だ。勇気と惰性のバランスを取れるようになりたい。